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Episode 1
The Deaths of Two Girls

 ガタンガタン…… ガタンガタン……

 陽炎の向こうから路面電車がやって来た。朝も早くから陽炎とは異常な暑さだ。歩道を歩く人々は皆額の汗をぬぐっていた。ただ、暑い中外を歩こうという人は少ない。外へ出る人は大抵自動車か路面電車の中でクーラーに当たっている。今は丁度通勤時間だから線路脇の市中心部に向かう車道は車でごった返していた。同方向の路面電車もサラリーマンで大入り満員だ。
 しかし、陽炎の向こうから姿を見せた路面電車は市の中心部とは逆方向に走っていた。にもかかわらず、その電車も大入り満員だった。だがその内容は少し異なる。乗客の殆どが制服に身を包んだ学生であった。彼(彼女)らは、数人でかたまって思い思いの話に耽っていた。

 「…でさぁ、マジ最悪でさぁ…」
 「キャハハハハハ…」
 「…で、この間の模試の結果は…」
 「…この折鶴なんじゃけど…」
 「…アハハ…」

 そんな学生の話し声や笑い声で騒がしい電車の後部乗降口辺りで4人の男子学生が吊革にぶら下がって立っていた。彼らも多分に洩れず自分たちの話で盛り上がっている。

 「しかし、夏休みなのに学校に行くなんて…やんなるな。」
 最も後部側にいた大柄な少年が大袈裟に溜息をついた。
 「別にそこまで…どうせ部活で毎日学校行ってるから。」
 すぐ隣の眼鏡を掛けた、やけに顔が青白い如何にもインテリそうな少年が投げやりに答えた。
 さらに隣の小柄な少年が続けて言った。
 「そうだそうだ。俺達は、お前と違って暇じゃねぇの。」
 「けっ、甲子園予選一回戦で敗退したくせに偉そうにほざくな。」
 ヒマ人呼ばわりされた大柄少年がそういって逆襲を図る。
 「そうそう。尾道槙峰なら勝てると思ったのにねぇ。」
 それに乗ってインテリ少年がさも残念そうに言った。

 三人は一様にあの夏の日の球場を思い返した・・・



 『九回裏、ツーアウトながらランナー二・三塁とした尾道槙峰高校。バッターは八番清水。1対0。逆転サヨナラの可能性が出てきました。』

 『ピッチャー、第一球を投げた!…あっと、初球打ち!ショート強襲!!』




 「それで、打球は遊撃手(ショート)長谷川選手の頭上を越えてったんだよね」
 「そう。逆転サヨナラ、甲子園サヨナラ…もうちょっと背が高けりゃグラブが追いついたかもしれないのにな。チビは本当に困るのう。」
大柄少年――白石克俊は、チビ少年――長谷川昌平を憐れむように見下ろした。途端に昌平の眉毛がつり上がる。
 「克(かつ)!またわしの事をチビ言うたな!!」
 「ホントの事を言うたまでよ。その程度で怒るとは昌平もガキじゃのう」
 克俊も負けずに言い返す。
 これが昌平の怒りの炎に油を注いでしまった。
 「おどりゃぁ、今日という今日は許さん!!」
 言うも早く克俊に飛び掛る昌平を間のインテリ少年――小鶴聖一が必死で止める。その傍で克俊はニィと笑みを浮かべる。傍から見るとは昌平をからかって愉しんでいる様子である。しかし、狭い車内でこのように暴れられると周りには非常に迷惑だ。既に周りからの視線が冷たい。
 「竜(たつ)ぅ〜!ウォークマン聴いてないで手伝えよ!!」
 非力そうな腕で昌平を何とか羽交い絞めにしながら聖一は必死の形相で後ろを振り向く。

 その視線の先に『竜』と呼ばれた少年がいた。黒ぶちの眼鏡を掛けたその少年は周囲に関心無さげな表情でヘッドホンから流れる音楽に耳を傾けていた。彼は、インテリ君のわめき声にヤレヤレといった表情で振り向き、眼前の光景を暫く眺めた後に、
 「ふぅ」
と軽く溜息をつき、ヘッドホンを外した。

 2005年8月6日、広島。それは普段どおりの日常の光景。





 木洩れ日が綺麗だな、と少女は思った。
 深緑に萌え出る木々の葉が蒼天からの眩い陽光を分散させ、気持ちの良い光の粒がその少女の周囲に降り注ぐ。まるでスポットライトの様に。それが美しい少女の姿をさらに美しく彩った。
 少女は空を覆う深緑の美しい木々に見とれた。それも束の間。
「津田さ〜ん!ちょっと、こっち手伝ってぇ〜!」
 声のした方では学生服を着た少年少女がテントを設営していたり、トラックから机や椅子を降ろしたりしていた。少女はペロッと舌を出して苦笑すると、
「ごめんねッ!今行く」
 そう言って声がした方へと小走りに駆けていった。

 広島市を東西に貫くメインストリート、平和大通り。それが元安川に架かる平和大橋を西に渡ってすぐの小さな緑地。そこにささやかな、それでいて印象的な石碑がある。背中に羽根をつけたもんぺ姿の少女と彼女を囲む二人のセーラー服の少女、ただそれだけが刻まれた石碑。目に付くのはもんぺの少女が抱える『E=MC2』という数式が書かれた箱だが、物理学を多少かじった者でなければ、これを見ただけでは何を表しているのか分からないだろう。

 少女が抱える『E=MC2』――アルベルト=アインシュタインによって発見されたエネルギーと質量の関係を示す公式であるそれは、人類に未知の巨大エネルギーの可能性という希望を与えた。
 だが、それは同時に、この世に地獄を現出させる存在を人類に与えてしまった悪魔の公式でもあった。

 その皮肉な現実を、その石碑の隣に建てられている碑文が容赦無く告げる。

『廣島市立舟入等女學校 原爆慰霊碑』

 その少女――津田祥子は今、その石碑がある場所にいた。


 廣島市立舟入等女學校――祥子が通う広島市立第二高等学校の前身――の女学生たちは、ちょうど六十年前のこの日、原爆の洗礼を受けた。特にこの碑が立つ場所で、あの閃光と灼熱を浴びた一・二年生は、一人の生き残りを出す事なく全滅した。それ故、舟入女は広島の学校で最も犠牲者を多く出した学校になったという。以来、原爆に焼かれた彼女たちを弔うため、毎年この日になると遺族、同窓生、そして在校生で慰霊式典を行っている。――祥子が聞いているのはそれくらいであった。尤も、毎年この時期になると先生がお決まりのように言ってくれるから、ほとんどの生徒が知っていることではあるが。

 祥子は在校生を代表して式典に参加していた。式典には、生徒会は勿論のこと、式典の音楽を演奏する吹奏楽部、そして女学生たちにささげる詩を朗読する演劇部員などが参加することになっている。――彼女は吹奏楽部員であり、尚且つ生徒会役員でもあった。

「ふぅ〜」
 テントや椅子、受付用の机などの準備があらかた終わり、祥子も他の生徒たちと同様に一息ついていた。彼女は吹奏楽部、生徒会両方の準備に関わらなければならないのだから他の生徒と比べて疲労度も大きい。こういう風に仕事が重なると、どうして生徒会まで引き受けてしまったのかなぁと少し後悔してしまうが、頼まれたら嫌とは言えないのが彼女の性分だった。勿論、みんなも祥子の状況を知っているから、それぞれの仕事を減らしてくれてはいるが、祥子はそれでは気が済まず、結局ほとんどの仕事を手伝ってしまうのだ。これは私の性格だからしょうがない。そう彼女は思うことにしている。
 しばらく木陰で休んでいると、クラリネットを持った女子学生が彼女のところにやってきた。
「ねぇ祥子、ちょっと音合わせしよ」
「そうだね。待ってて」
 これまでの疲労をおくびにも出さず、そう言って祥子は自分の荷物の中からフルートを取り出した。

 二人は各々の楽器を構え、音を奏でていく。自身の勘で音の調子を合わせながら。ふと周りを見ていると、他の吹奏楽部員も楽器を取り出して音合わせをしている。次第に、慰霊碑の周りに音が溢れ始めた。

「ホント、いつ聴いてもいいよね。祥子のフルートは」
「そんなことないよ」
「いやいや、今日はいつにも増して気合入っている感じ」
「そうかなぁ・・・」
「そうだよ。祥子ってさ、慰霊式典の日は特に頑張ってるもんね。・・・どうしてなのかな?」
 それは事実だった。確かに今日の演奏はいつもより気を入れて頑張ろうと決めていた。彼女はあの日ここで約束したことを忘れてはいなかった。ただ、それが何かと訊かれても、仮に話したとしても信じてくれそうに無かったので、誰にも――ひそかに想いを寄せている幼馴染にも――打ち明ける気にならなかったが。

「フフッ、ちょっとね」
 そう言って誤魔化そうとする祥子。
「ずる〜い。いつもそう言って教えてくれないんだから」
 ちょっと憤慨したような表情を見せる友人にちょっと可笑しさを感じながら追求から逃れていると――

ゴォーン ゴォーン

 荘厳な鐘の音に続いて、無数の鳥の羽ばたく音が平和大通りを挟んだ向こう側から聴こえてきた。時計を見ると、八時十五分を指していた。
「もう、そんな時間になったんだね」
 友人の言葉に、祥子はただ、
「うん」
とだけ呟いた。
 そして彼女は、鐘の音を聴きながらその場に立ち止まり、静かに目を閉じた――

 2005年8月6日、広島。それは厳かな祈りの風景。




 『今日も広島電軌を御利用戴き真に有難う御座います。間も無く終点、舟入川口町です。市立第二高校は次でお降り下さい。』

 アナウンスが流れると間もなく、電車は終点の停留所にゆっくりと滑り込むように停車した。殆ど学生である乗客はぞろぞろ電車から降りてくる。さっきの四人も同様に電車の中から姿を現した。

 「暑ぃぃぃぃぃーーーーー」
 開口一番、昌平が雲ひとつ無い青空を見上げながら恨めしそうに言った。
 「ホンマ、暑ぃのー」
 克俊は、そう言いながら額から止め処なく流れる汗を拭った。
 「朝のニュースじゃあ、今年一番の暑さだって言ってたよ」
 二人の後ろをついて歩いている聖一が克俊の言葉に付け加える。
 「ふ〜ん、道理で」
 昌平は余りの暑さに気のない返事をした。
 そんな三人の間に居ながら、もう一人の少年『竜』――大野竜彦は、特に話すこともなくただ苦笑ともとれる笑みを浮かべていた。

 彼らの学校――広島市立第二高等学校は電停から車道を渡ってすぐの所にある。四人は暑さから逃れようと早足で校舎へと向かった。
この校舎は最近改築されたばかりで、ガラス張りの透明感溢れるきれいな建物だ。講堂もそこらのホールよりずっと立派だし、体育館も綺麗な床で光り輝いている。何より、プールは屋根付の全天候型温水プールだ。市立高校は県立高校と違って学校数が少なく、それだけ一つの学校に金を回しやすい、言う事情の賜物だ。ただ、実際に通う生徒にとっては感覚的に当たり前となっているから、他校が羨ましがる環境の良さを自覚することは余り無いが。

 「よう、竜彦!いつもより遅いな。」
 教室に入るなり長身の男子学生が声を掛けてきた。彼はこの四人のクラスメートで達川衛という。竜彦とは中学生の頃からの親友だった。
 「おはよう、衛。そんなもんか?」
 竜彦の言葉に衛は嘲笑を含んだ笑みを見せて、後ろの三人を指差す。
 「だって、この三バカと同じ時間なんて余程のことだぞ」
 「・・・そう言われてみれば。こいつらと一緒に登校なんてあまりなかったな」
 竜彦は納得したようでウンウン頷くが、昌平が早速反応する。
 「おいコラ!!『三バカ』とは何じゃぁぁぁ!」
 「・・・怒るのそこ?」
 聖一が冷静にツッ込むが、昌平の怒りは納まらない。しかも克俊まで、
 「約二名はそうかもしれんが、ワシまで同一視して欲しくないのう」
と言い出す始末。
 「それはどういう意味じゃ、克ッ!」
 すかさず克俊に食って掛かる昌平。さらに聖一も、
 「それは僕の台詞だよ、克」
 あくまで冷静だが、その口調には多少怒りが含まれている。
 「ちょっと待て、聖一。それは俺と昌平がアホだということか?」
 「『アホ』じゃなくて『バカ』でしょ」
 「くっ・・・だが、似たようなもんじゃろうがッ!」

 克俊が聖一にヘッドロックをかましたのを切っ掛けに、昌平が克俊に掴み掛かり、いつもの三バカのじゃれ合い(?)が始まるのだった。

 「・・・また始まったか。夏休みになっても相変わらずだな」
 腕を組んで偉そうに目の前の光景にコメントしている衛を横目で見ながら、竜彦は少々大げさな溜息を吐く。
 「お前が嗾(けしか)けたんだろうが、お前が。まぁ、朝も電車の中でじゃれてたからな、こいつら。周りの奴らに注目されて恥ずかしいったらありゃしない」
 「俺は見ていて飽きないけどな」
 のんきにそんな事を言う親友に対して
 「いつも抑える俺の身になってくれ・・・」
 竜彦は頭を抱えるのだった。

 間もなくチャイムが鳴り、教室のドアががらっと開く。
 「おい、そこ何やってるんだ?ホームルーム始まるぞ」
 担任である山本浩人の一声で三人組も取っ組み合いを止め、すごすごと席に戻る。竜彦も衛も同様に席に戻った。

 そのままホームルームが始まる。
 「――で、これが終わったらそのまま『メイプルホール』に集合です。今日は、夏休みの内の一日ではあるけど、広島に住むものにとっては決して忘れてはならない日です。慰霊式典に参加していない君達も、犠牲になった先輩達の冥福と世界の平和を祈るという気持ちを持って集会に臨んで欲しいと思います。――」
 山本教諭はこれからの予定を述べるとともに、今日の『平和集会』に対する心構えを諭した。彼は年齢的には若い部類に入るが、若さゆえによく有り気な高圧的な物言いはしない。それ故に、生徒内の評判も決して悪くない。しかし、今の彼の言葉をまともに聞いている生徒はそれほどいなかった。
 彼もそれは分かっているらしく、少し苦笑しながら、
 「では、ホームルーム終了。日直さん、号令お願い。」
と、日直にホームルームを締めさせた。
 「きり〜つ、礼!」
 昌平がやる気有るのか無いのか分からない号令をかけ、生徒は各々教室を出て『メイプルホール』に向かった。

 「な〜んか、やる気なさそうな面してるなぁ、お前」
 ホールへ行く道、すぐ横を歩いていた衛が竜彦に言う。
 「まあな。こんな暑いのにわざわざ学校に行って、挙句こんな訳の分かんない行事だろ。これからまた長くて詰まらん話聞かされるかと思うと・・・」
 お前もだろ?と切り返す竜彦に、衛は苦笑いしながら答える。
 「そりゃ、な。今更『戦争』とか、『原爆』とか言われてもピンとこねぇしな。」
 「遠い昔の話だろ?その為だけに何で夏休みまで学校に行かねばならんのか・・・ホントなら今頃家で有意義な時間を過ごしているというのに」
 「そりゃ惰眠を貪ってると言わないか・・・?」
 衛のツッコミに竜彦はただフッと笑ってホールの中へと消えていった。

 彼らの後ろを昌平ら三人組が歩いていた。
 「ところでさ、もうすぐ公演だろ?」
 「うん・・・」
 克俊の問いに、聖一は気の無い顔をして答える。
 「どしたどした。テンション低いぞぉ」
 そんな聖一の背中をバシバシと叩く昌平。
 「ゲホッ!・・・痛いって。・・・今回のはそんなにやる気がしないだけだよ」
 「今回って・・・あれか?いつもの――」
 克彦の言葉に聖一は無言で頷いて肯定した。
 「――ああ、『アレ』ね。お前んとこの顧問も好きだねぇ。」
 軽い口調で言う昌平に、聖一は深い溜息を吐く。
 「ホント、困ったもんだよ。毎年この時期になると『アレ』なんだもん。僕はこんな事しに演劇部に入ったんじゃないのに」
 「そういや、演劇部は慰霊祭の方に行ってんじゃないのか?」
 「ただ、詩を朗読するだけだからね。やりたいって志願した後輩の女の子が行ってると思うよ。全員で押しかけるのも馬鹿馬鹿しいだろ?」
 聖一は、気の無い顔で克彦に答えた。

 そんな彼らの後ろを、教師である山本浩人と古葉のぞみが歩いていた。
 「ふぅ」
 「どうしたの?そんな辛気臭い顔して。まぁ、あんたがそんな面しているのはいつものことだけど」
のぞみはやや失礼なことを言いながら浩人にタメ口で話しかける。この二人は高校時代の同窓生(しかもこの学校の)で、どういう訳か同じ年に新任でこの学校に赴任してきた、という経歴を持つ、ある意味腐れ縁(と浩人は声を大にして言いたい)と言うべき間柄だった。
 「君はいつも一言多いんだよ・・・ただ、生徒がさ、何か今日のことに無関心って言うか、無反応なことがちょっと気になってね・・・」
 「そんなこと気にしてたんだ」
あっさりと返すのぞみに浩人は少し驚いた。これでも自分は少し悩んでいたのだ。あれでも自分たちがあのくらいの頃は、まだ「あの日のこと」について少しは考えようとしていたのに・・・
 「仕方ないよ。先生の世代とあたしたちの世代だって違うのよ。あの子達なんてもっと違う。あたしたちには当たり前の事でも、あの子達にとってはそうではないのよ・・・」
 「・・・」
 のぞみの珍しいシリアスな言葉に浩人は黙って俯く。
 確かにそう・・・そうなんだけど・・・どこか釈然としない思いが浩人の中で渦巻いた。だから、そう言った望みの表情が少し翳りを見せたことには気付かない。
 「まぁ、そんなに気にしなくてもいいんじゃない?――禿げるよ」
 のぞみはいきなりポンポンと浩人のおでこを叩く。その表情はいつもの明るい、どこか人をコケにしているようなそれだった。
 「つッ!いきなり変なこと言うなッ!」
 「そんな反応してくるって事は、相当気にしてるって事だよね?」
 「違うって!!」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて、のぞみは機嫌を損ねている浩人から逃げるように離れていった。
 「ったく、古葉は・・・」
 そんなのぞみの姿を見送りながら、浩人はいつもの様に苦笑いするのだった。




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